街物語 New Mexico Taos

タオス

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 本当にコアなアーティストはタオスに住むと言われるほど、このタオスというところはサンタフェをより平和で純粋に濃縮したような街である。ドレッド姿で野菜を育てている若いオーガニック・ピープルやビンテージの服を着てカフェで音楽を奏でている人たち、リオグランデ沿いに自然循環型の家を建てて暮らすグループなど。映画「Easy Rider」に出てくるようなヒッピースタイルの生活が今でもここにはある。

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 タオスでは古いヒストリックアドビの家々が修復を繰り返して今も多く使われている。日本の古民家に若者やアーティストたちが住み着きだした感覚にも似ているが、それよりもなんだか純粋で質素に感じる。

 アドビの原型ともいえる家がタオスの街にある。一千年前に作られた先住民プエブロ族の集合住宅タオスプエブロである。

  数年前、写真を始めてすぐの時に先住民の暮らしを撮りたくて最初に訪れた場所がここタオスプエブロ、それ以来何度か足を運んでいる私にとって思い出の場所である。

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 プエブロとはもともと集落を意味する言葉で、タオス以外にもこの周辺にはいくつものプエブロ族の集落がある。その中でもタオスが特別で世界遺産にもなっているのは、千年間住み続けられているアドビ式の住居と昔から変わらない生活を保っているからである 。タオス山の麓に位置し、半径100メートル程の集落の真ん中には小川がゆっくりと流れている。プロパンガスこそあるものの、私たちの暮らしには欠かせないと思われている電気も水道もここには今もない。

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 時代の流れとともに観光化が進み、ここには住まずに昼間だけ旅行者相手に土産物や工芸品を売りにくるプエブロの人も増え、若い世代は普通に街に仕事にでている。今でもここで暮らしている家族が40世帯ほどいる。暖炉に薪をくべ、小川から水をくみ、大地の恵みで食事をつくる。ここにくる度に人の生活には何が必要で何が不必要なのか考えさせられる。時代の流れとともに伝統や服装も変わりつつあるが、老人や大人は今も厚手のブランケットを纏(まと)い冬の寒さから身を守っている。

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Chimayo

 

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 伝統的な織物の街、日本でいう群馬の桐生か京都の西陣といった風情である。老舗の一つであるセンチネラという織物工房を訪れた。

 この道50年のオーナーのアービン・トゥルジロさんは様々なコンクールで何度も賞をとっているチマヨでも屈指のセンスと技術をもつ織物職人だ。アービンさんの作品はチマヨの伝統的なデザインやネイティブのデザインはもちろん、生活の身近にある自然もモチーフにしている。また、日本の宮崎アニメが好きな彼はスタジオジブリの色使いやデザインも高く評価していて、時にはそこからもインスピレーションを受けるという。

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 センチネラは織物に使う毛糸の色にもこだわって天然の木の皮や実、花などを使い、職人自ら染めまで行っている 。ウォルナッツやインディゴ、マヤの時代から染料として使われていたログウッドにあかね根と呼ばれナバホの織物にもよく使われるマダールーツなどがなんともいえない優しい自然の色合いを作りだす。

  チマヨウィービングと呼ばれるチマヨ織りにはラグの他にも小物入れやコースター、ベストなどの服やカバンがあり、日本でもかなりの人気がある。

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 数年前にここセンチネラを初めて訪れた時、ちょうど日本の有名なショップからの大口の注文に追われているところだった。その注文の数を聞いてびっくりした。 一枚一枚デザインして色合いを決め、手作りで織り上げていくチマヨの織物を数千枚単位で注文していたのだ。家族経営の小さなセンチネラでは、そのために数人の職人を雇い入れていた。

 大手のショップがやるそんなやり方がどうも好きにはなれなかった。注文がなくなればどう感じるのだろうか。日本からの注文をちょっと自慢げに話していたアービンさん、彼を見ながら私は何となく申し訳なくなった。作りだされたブームは簡単に他に移ってしまう。

 今回センチネラを訪れた時には案の定、日本からの注文はめっきり減っていた。同じ織物職人でもある妻のリサさんは少し肩を落としているように見えたが、私はなんだか少し安心した。こういうものは本当に価値を知る人に少しずつ売り買いして欲しいと思うからだ。そうした流行は彼らにとって、一時的とはいえ大きな仕事と報酬を生み出すから正直、微妙なところだ。でも、なんとなくそのやり方は小さなこの町には似合わない気がした。

 

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<チマヨラグ>

 400年程前にニューメキシコに住みだしたスペイン人により伝えられた織物の技法で、その後シンプルな二本のストライプをデザインとしたリオグランデやメキシコのデザインを取り入れたサルティロなどのスタイルが生まれる。その両方のデザイン性を合わせたようなツーストライプとセンターデザインをもち、更にネイティブアメリカンのデザインからも影響を受け100年程前に生まれたのがチマヨと呼ばれるラグのデザイン。

 

 

サントュアリオ・デ・チマヨ 奇跡の砂

 

 チマヨは街といっても山間に細い道があるだけの場所である。道を囲うように続く木々の中にぽつりぽつり小さなギャラリーやアトリエ、ショップが点在しているものの、すぐに 通り過ぎてしまいそうなのどかな田舎道だ。ここに有名な教会があると聞いて訪れた。

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 一本道を奥まで行くと エル・サントュアリオ・デ・チマヨという優しい土壁でできた教会はあった。この山間の小さな教会に年間数万人の人が訪れるというから驚きだ。その理由は昔、聖人が旅人の傷を癒したという奇跡の砂なるものがあり、それを求めて大勢の人が礼拝に訪れるという。

 教会の奥にある小さな部屋にその砂はあった。世界中から、傷や病気が治ったという感謝のメッセージや病と闘っている人々の写真が壁いっぱいに貼られている。穴の開いた地面を掘るようにして砂を取る。足など自分の良くなって欲しい部分に塗るようにかける。日本のお寺で香炉の煙を頭や身体にかけているのを思い出した。やることは違えど人の願いは何処でも同じなのかもしれない。

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アビキュー

 

 アビキューは画家のジョージア・オキーフが長く住み、その活動の場所としたことで有名な街である。彼女が住んでいたのは街から少し離れたゴーストランチと呼ばれる場所で、晩年の作品の多くがここから生まれている。

 ここを訪れる前にサンタフェにあるオキーフ美術館に行った。主に20年代から60年代の作品がたくさん展示してあり、その中にはアビキューを描いたものも多くあった。

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  アビキューは乾いたニューメキシコの大地では珍しく、近くを流れるチャマ川やアビキュー湖が生み出す緑が赤土の丘とあいまって何とも言えない壮観な風景を作りだしている。彼女の作品にどこか瑞々(みずみず)しさを感じたのはきっとそのためだろう。

 ゴーストランチから眺めるアビキューの景色は一見単調に見えるが、しばらく眺めていると何種類もの淡い色たちがゆっくりと見え始める。それはまるでカメラのシャッターを長い時間押してやっと写りだした風景のように、瞳や頭の中で次第にはっきりとした色の絵になる。同じものを眺め続けると見えてくる風景、ジョージア・オキーフという画家がこの場所を描き続けた理由はそんなところにあるのかもしれない。

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ジョージア・オキーフ

 20世紀を代表するアメリカの芸術家の一人で、彼女の多くの作品がニューヨーク、ワシントン、シカゴなどの有名な美術館にコレクションされている。花や風景を抽象的に描く作品は、夫で写真家のアルフレッド・スティーグリッツの影響もあり強い光のコントラストがあるものが多い。

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 オキーフは、30歳の時、初めて訪れたニューメキシコの風景に心を奪われ、しばらくニューヨークなどで活躍した後、アビキューにある古いアドビの家を3年かけて修復して暮らし始める。98歳にサンタフェで亡くなるまで生涯この風景に魅せられ続けた。

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<あとがき>

 街というものに注目して、千年以上続くタオスや古都サンタフェを巡った。比べるように自分の生まれた街や育った場所を思い出しながらまわっているうちに、人は「国」ではなく、「街」に住んでいるのだと強く思うようになっていた。きっと、国というものは一人一人の生活の中ではあまりに大きく遠く漠然としているのかもしれない。勝手に誰かに作られたような気さえする。

 サンタフェに住む人のことをサンタフィアンと呼ぶ。ここに住む人は白人であれ、東洋人であれ、アフリカ系であれ南米系であれ、ネイティブであれ皆サンタフィアンということだ。その街に暮らすと考えるようになると、国という概念が私の中で少しずつ薄れていった。私はこの先どんな街に住むのだろうかと想像しただけで、なんだか未来が今より楽しく思えてきた。

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街物語 New Mexico Santa Fe

サンタフェ

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「アッシジのフランチェスコの聖なる信仰に忠実な王都」  

 

 アメリカの南西部アリゾナ州とテキサス州に挟まれたニューメキシコ州にサンタフェという名の小さな古都がある。標高約2200メートルという高地に位置するこの天空の街は、訪れた人々を魅了し、その多くはリピーターとなって再びこの地に戻ってくるという。

 

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 周りを山に囲まれているため、冬には雪がよく降る。それでも、この街に降り注ぐ強い陽射しがあっという間に雪を融かし、日中は冷たい空気と温かい陽の光が不思議と優しい気候を作りだす。春にサンタフェの街を歩けば、あちらこちらに咲き乱れた薄紫のラベンダーと温かい赤茶色の土壁をしたアドビの家々が続き、古い異国の街を訪れたように思えてくる。

 

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 そんなサンタフェの街の魅力は、アメリカの中にあってもっともアメリカらしくない街というところにある。街を囲むようにいくつもの集落をもつ先住民のプエブロ族や、200年続いたスペイン統治による植民地時代、メキシコ時代を経て、アメリカに至るまでその全ての文化の影響が、サンタフェという街を色付けている。そして今はチベット寺院や禅センターなどもあり、アジア文化も広く受け入れられている。そんな趣があるこの街はアメリカの中でも文化や宗教などにおいて最も理解があり寛容な街の一つであると言えるだろう。

 ニーメキシコの州の経済は州都であるサンタフェではなく、そこから70マイルほど西にあるアルバカーキに集約している。1926年アメリカのハイウェイプロジェクトが始まり、シカゴからサンタモニカへ繋いだルート66はサンタフェを外して、アルバカーキを通った。

 しかし、それがかえってサンタフェの魅力を保つ役目を担った。経済の発展というのは多くの場合、歴史や文化、建築をないがしろにして行われる。おかげでサンタフェは今なお、ひっそりと時代から取り残された古都のようである。 また、他の多くの都市にあるようなチャイナタウンもなければ、野球やバスケット、フットボールといったスポーツのメジャーチームがこの州にはないこともいわゆるアメリカらしさを感じない理由の一つかもしれない。

 

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 そもそもこの街ができたのは、アメリカ合衆国が誕生する約170年前のスペイン統治時代で、今から400年以上前になる。つまり街というのは国ができる前からそこに在ったり、国が変わっても街は変わらなかったりするのかもしれない。そして昔からこの周辺に点在するプエブロ族などの先住民やメキシコ人と、移り住んできたヨーロッパ人との間の交流の街として栄えた歴史を持っている。

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 昔ながらのアドビ建築の家々が、街全体を温かな雰囲気で包み込んでいる。ホールフーズマーケットやスターバックス、マクドナルドに至るまで、この街では土色の壁で作られている。これは外観だけをアドビ風に作ったフェイクアドビと呼ばれるもので、スーパーマーケットやチェーン店などによく見られる。

 一方、個人のお店や小さなカフェやレストランなどは、今でもその多くが本物のアドビ建築でできている。中でも古いヒストリックアドビと呼ばれる建物は窓の作りを変えてはいけないなどとその修復に細かな規制があり、街の景観をできるだけオリジナルのまま守りたいというここに住む人たちの高い美意識が感じられる。

 

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 美意識と言えば、驚くのがこの街中いたるところで アートを目にすることである。プラザの旧総督邸前では、インディアンジュエリーをアーティスト本人やその親戚がいつも売っている。小さな街なのにアート・ギャラリーが250軒以上も存在し、それはアメリカの中ではニューヨークに次ぐ数で、美術品の取引数はパリ、ニューヨークに続いて、世界第3位。

 キャニオンロードという1キロほど続く狭い坂道の両脇には、絵画や彫刻、写真、陶芸、ガラス工芸、ジュエリーなど、古典的なものからコンテンポラリーまで様々なアートを扱うギャラリーが、100軒以上並んでいる。

 サンタフェのアートを支えるように、この街には芸術や芸術家をバックアップする様々なグラントがある。 芸術大学の奨学金制度やコンテスト、プロジェクト支援やワークショップなどが色々なジャンルのアートに向けて行われている。そのため、アメリカだけではなく世界中からアーティストが集まり、日々おのおのの作品を作り発表している。

 

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 日本人にとってサンタフェという街は、90年代に篠山紀信が撮った『サンタフェ』という写真集ぐらいでしか馴染みがないかもしれないが、意外にも日本との繋がりは多い。その一つは、第二次大戦中にこの街には日系人収容所が建てられ、当時約4500人の日系人やその2世3世たちがカリフォルニアやハワイから連れてこられ、ここに抑留されていた。

 現在、その跡地は大きな公園とドッグランになっていて、丘の上に当時の状況を綴った石碑が建てられている。丘の上から大きくひらけた公園を眺めていると、この土地が当時とあまり変わっていない気がしてくる。アメリカに住む日系人として、また、日本人の血を引くアメリカ人として、この場所でどんな想いを抱きながら抑留生活を送ったのだろうか。

 

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 この街で会う人の多くは、なぜか日本や日本人に好意的な気がする。もしかしたら、この街の歴史をしっかりと理解しているのかもしれない。

 公園には子供や愛犬と遊ぶ家族が多くいた。この公園を歩いていたら、犬を連れた白髪のおばさんに話しかけられた。彼女は軽く挨拶をした後、日本人の私に「FUKUSHIMA」のことを申し訳なさそうに謝ってきた。おばさんは、日本の原発産業を推進したのはアメリカだから、事故の責任はアメリカにもあると言った。

 おばさんの少し意外な謝罪に驚きながら、事故を引き起こした当の日本人である私たちは、果たしてどうであろうかと思った。今も、そしてこれからもまだまだ世界中に影響を及ぼすであろう「FUKUSHIMA」のことを、世界に対して、また自分たちに対しても謝ることすらしていないのではないか、と思えてきた。

 

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Adobe  

 アドビ建築とは、土と水と藁など自然の素材を使い、数千年前からアフリカ、中近東、アジア、ヨーロッパなど世界中で行われてきたシンプルな建築方法である。日干しレンガにしたり、そのまま壁に埋めていったりと微妙にその土地によりやり方が違う。ここニューメキシコのアドビは先住民のプエブロ族のやり方がスペインからの移民たちに広まっていった。

 分厚い土壁が夏の陽射しから部屋を涼しく保ち、冬には暖炉の熱を外に逃がさない。フラットな天井とそれを支える数本の丸太が壁から突き出していて、さらに雨水を集めるための水路となる木が天井から外へと伸びている。柔らかな曲線を描く土壁と丸太たち、そしてターコイズブルーと呼ばれる水色で塗られたドアや窓枠がニューメキシコアドビの特徴となっている。

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Hot Spring

 サンタフェやタオスの周辺にはいくつか有名な温泉がある。その一つには古くはネイティブアメリカンの戦士ジェロニモが戦いの傷を癒したという天然温泉もある。今ではすっかり高級スパのような感じになっているオホ・カリエンテというその温泉はスペイン語でそのままの「温泉」という場所を意味する。

 その他にもサンタフェの街から15分程の近場にあるTen Thousand Wavesという本格的な純日本風の温泉宿がある。日本の温泉マニアであるオーナーのデュークさんが細部にまでこだわっているため、日本に帰らずとも最高の温泉気分を味わうことができる。さらに、タオス周辺のリオグランデ川沿いに湧く露天風呂なら、お金を払わなくても自由に入れる。サンタフェから1時間ほど離れたハメスマウンテンの温泉街には地元の人しか知らない山道を歩いてから入るような、いわゆる秘湯まである。

 

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もう一つの繋がり、ロスアラモス

 サンタフェから北西に40分ほど行ったところにロスアラモスという街がある。テスクェやナンベ、サンイルデフォンソといったいくつかのプエブロの集落を抜けて、赤茶けた山道をはしると急に普通のきれいな街が現れる。そのいわゆる普通がこのあたりではなんだか異様に見える。

 昔ながらのアドビの家がほとんどのタオスやサンタフェと違い、この街は1940年代に突然現れた人工的な街なのである。当時アメリカの原子力研究の一大事業であったマンハッタン計画のもとに秘密裏に作られたこのロスアラモスで、広島と長崎に落とされた原子力爆弾が製造された。

 街の中心にはその様子が詳しく説明されている博物館がある。当時の映像やインタビューなどのドキュメンタリーも見られる。内容は戦争に対しては肯定的で、科学技術に対して手放しの称賛も多く、正直微妙だが当時の状況を知ることはできる。

 

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 以前、アメリカの教育現場では原爆投下は戦争を早期に終結させるには必要な判断だったと教えられていると聞いたことがあった。最近はその考えも見直されているというが、それを示すものがここにもあった。広島や長崎の写真とともに、マンハッタン計画の最高責任者であったレスリー・グローブス将軍の証言「原爆は必要なかった」と書かれたポスターを見つけた。その文字を眺めて少しだけほっとしてきた。そのポスターは博物館の隅のほうに貼られていたが、それがなければ私はきっと複雑な気持ちのままこの街を後にしたに違いない 。