街物語 New Mexico Santa Fe

サンタフェ

santa fe-10.jpg

 

「アッシジのフランチェスコの聖なる信仰に忠実な王都」  

 

 アメリカの南西部アリゾナ州とテキサス州に挟まれたニューメキシコ州にサンタフェという名の小さな古都がある。標高約2200メートルという高地に位置するこの天空の街は、訪れた人々を魅了し、その多くはリピーターとなって再びこの地に戻ってくるという。

 

santa fe-25.jpg

 

 周りを山に囲まれているため、冬には雪がよく降る。それでも、この街に降り注ぐ強い陽射しがあっという間に雪を融かし、日中は冷たい空気と温かい陽の光が不思議と優しい気候を作りだす。春にサンタフェの街を歩けば、あちらこちらに咲き乱れた薄紫のラベンダーと温かい赤茶色の土壁をしたアドビの家々が続き、古い異国の街を訪れたように思えてくる。

 

GON_6065.jpg

 
 そんなサンタフェの街の魅力は、アメリカの中にあってもっともアメリカらしくない街というところにある。街を囲むようにいくつもの集落をもつ先住民のプエブロ族や、200年続いたスペイン統治による植民地時代、メキシコ時代を経て、アメリカに至るまでその全ての文化の影響が、サンタフェという街を色付けている。そして今はチベット寺院や禅センターなどもあり、アジア文化も広く受け入れられている。そんな趣があるこの街はアメリカの中でも文化や宗教などにおいて最も理解があり寛容な街の一つであると言えるだろう。

 ニーメキシコの州の経済は州都であるサンタフェではなく、そこから70マイルほど西にあるアルバカーキに集約している。1926年アメリカのハイウェイプロジェクトが始まり、シカゴからサンタモニカへ繋いだルート66はサンタフェを外して、アルバカーキを通った。

 しかし、それがかえってサンタフェの魅力を保つ役目を担った。経済の発展というのは多くの場合、歴史や文化、建築をないがしろにして行われる。おかげでサンタフェは今なお、ひっそりと時代から取り残された古都のようである。 また、他の多くの都市にあるようなチャイナタウンもなければ、野球やバスケット、フットボールといったスポーツのメジャーチームがこの州にはないこともいわゆるアメリカらしさを感じない理由の一つかもしれない。

 

santa fe-19.jpg

 

 そもそもこの街ができたのは、アメリカ合衆国が誕生する約170年前のスペイン統治時代で、今から400年以上前になる。つまり街というのは国ができる前からそこに在ったり、国が変わっても街は変わらなかったりするのかもしれない。そして昔からこの周辺に点在するプエブロ族などの先住民やメキシコ人と、移り住んできたヨーロッパ人との間の交流の街として栄えた歴史を持っている。

GON_52.jpg

 

 昔ながらのアドビ建築の家々が、街全体を温かな雰囲気で包み込んでいる。ホールフーズマーケットやスターバックス、マクドナルドに至るまで、この街では土色の壁で作られている。これは外観だけをアドビ風に作ったフェイクアドビと呼ばれるもので、スーパーマーケットやチェーン店などによく見られる。

 一方、個人のお店や小さなカフェやレストランなどは、今でもその多くが本物のアドビ建築でできている。中でも古いヒストリックアドビと呼ばれる建物は窓の作りを変えてはいけないなどとその修復に細かな規制があり、街の景観をできるだけオリジナルのまま守りたいというここに住む人たちの高い美意識が感じられる。

 

GON_5974.jpg

 

 美意識と言えば、驚くのがこの街中いたるところで アートを目にすることである。プラザの旧総督邸前では、インディアンジュエリーをアーティスト本人やその親戚がいつも売っている。小さな街なのにアート・ギャラリーが250軒以上も存在し、それはアメリカの中ではニューヨークに次ぐ数で、美術品の取引数はパリ、ニューヨークに続いて、世界第3位。

 キャニオンロードという1キロほど続く狭い坂道の両脇には、絵画や彫刻、写真、陶芸、ガラス工芸、ジュエリーなど、古典的なものからコンテンポラリーまで様々なアートを扱うギャラリーが、100軒以上並んでいる。

 サンタフェのアートを支えるように、この街には芸術や芸術家をバックアップする様々なグラントがある。 芸術大学の奨学金制度やコンテスト、プロジェクト支援やワークショップなどが色々なジャンルのアートに向けて行われている。そのため、アメリカだけではなく世界中からアーティストが集まり、日々おのおのの作品を作り発表している。

 

santa fe-2.jpg

 

 日本人にとってサンタフェという街は、90年代に篠山紀信が撮った『サンタフェ』という写真集ぐらいでしか馴染みがないかもしれないが、意外にも日本との繋がりは多い。その一つは、第二次大戦中にこの街には日系人収容所が建てられ、当時約4500人の日系人やその2世3世たちがカリフォルニアやハワイから連れてこられ、ここに抑留されていた。

 現在、その跡地は大きな公園とドッグランになっていて、丘の上に当時の状況を綴った石碑が建てられている。丘の上から大きくひらけた公園を眺めていると、この土地が当時とあまり変わっていない気がしてくる。アメリカに住む日系人として、また、日本人の血を引くアメリカ人として、この場所でどんな想いを抱きながら抑留生活を送ったのだろうか。

 

GON_4339.jpg

 

 この街で会う人の多くは、なぜか日本や日本人に好意的な気がする。もしかしたら、この街の歴史をしっかりと理解しているのかもしれない。

 公園には子供や愛犬と遊ぶ家族が多くいた。この公園を歩いていたら、犬を連れた白髪のおばさんに話しかけられた。彼女は軽く挨拶をした後、日本人の私に「FUKUSHIMA」のことを申し訳なさそうに謝ってきた。おばさんは、日本の原発産業を推進したのはアメリカだから、事故の責任はアメリカにもあると言った。

 おばさんの少し意外な謝罪に驚きながら、事故を引き起こした当の日本人である私たちは、果たしてどうであろうかと思った。今も、そしてこれからもまだまだ世界中に影響を及ぼすであろう「FUKUSHIMA」のことを、世界に対して、また自分たちに対しても謝ることすらしていないのではないか、と思えてきた。

 

santa fe-28.jpg

 

Adobe  

 アドビ建築とは、土と水と藁など自然の素材を使い、数千年前からアフリカ、中近東、アジア、ヨーロッパなど世界中で行われてきたシンプルな建築方法である。日干しレンガにしたり、そのまま壁に埋めていったりと微妙にその土地によりやり方が違う。ここニューメキシコのアドビは先住民のプエブロ族のやり方がスペインからの移民たちに広まっていった。

 分厚い土壁が夏の陽射しから部屋を涼しく保ち、冬には暖炉の熱を外に逃がさない。フラットな天井とそれを支える数本の丸太が壁から突き出していて、さらに雨水を集めるための水路となる木が天井から外へと伸びている。柔らかな曲線を描く土壁と丸太たち、そしてターコイズブルーと呼ばれる水色で塗られたドアや窓枠がニューメキシコアドビの特徴となっている。

santa fe-18.jpg

 

Hot Spring

 サンタフェやタオスの周辺にはいくつか有名な温泉がある。その一つには古くはネイティブアメリカンの戦士ジェロニモが戦いの傷を癒したという天然温泉もある。今ではすっかり高級スパのような感じになっているオホ・カリエンテというその温泉はスペイン語でそのままの「温泉」という場所を意味する。

 その他にもサンタフェの街から15分程の近場にあるTen Thousand Wavesという本格的な純日本風の温泉宿がある。日本の温泉マニアであるオーナーのデュークさんが細部にまでこだわっているため、日本に帰らずとも最高の温泉気分を味わうことができる。さらに、タオス周辺のリオグランデ川沿いに湧く露天風呂なら、お金を払わなくても自由に入れる。サンタフェから1時間ほど離れたハメスマウンテンの温泉街には地元の人しか知らない山道を歩いてから入るような、いわゆる秘湯まである。

 

santa fe-40.jpg

 

もう一つの繋がり、ロスアラモス

 サンタフェから北西に40分ほど行ったところにロスアラモスという街がある。テスクェやナンベ、サンイルデフォンソといったいくつかのプエブロの集落を抜けて、赤茶けた山道をはしると急に普通のきれいな街が現れる。そのいわゆる普通がこのあたりではなんだか異様に見える。

 昔ながらのアドビの家がほとんどのタオスやサンタフェと違い、この街は1940年代に突然現れた人工的な街なのである。当時アメリカの原子力研究の一大事業であったマンハッタン計画のもとに秘密裏に作られたこのロスアラモスで、広島と長崎に落とされた原子力爆弾が製造された。

 街の中心にはその様子が詳しく説明されている博物館がある。当時の映像やインタビューなどのドキュメンタリーも見られる。内容は戦争に対しては肯定的で、科学技術に対して手放しの称賛も多く、正直微妙だが当時の状況を知ることはできる。

 

santa fe-35.jpg

 

 以前、アメリカの教育現場では原爆投下は戦争を早期に終結させるには必要な判断だったと教えられていると聞いたことがあった。最近はその考えも見直されているというが、それを示すものがここにもあった。広島や長崎の写真とともに、マンハッタン計画の最高責任者であったレスリー・グローブス将軍の証言「原爆は必要なかった」と書かれたポスターを見つけた。その文字を眺めて少しだけほっとしてきた。そのポスターは博物館の隅のほうに貼られていたが、それがなければ私はきっと複雑な気持ちのままこの街を後にしたに違いない 。